
奈良 薬師寺
Contents
読み方 ご利益 御朱印
◆読み方
薬師寺(やくしじ)
玄奘三蔵院(げんじょうさんぞういん)
◆ご利益 病気平癒 健康祈願
◆御朱印

奈良薬師寺御朱印
アクセス・地図・駐車場有無・時間帯
◆拝観時間 8時半から17時まで
◆拝観料 有り 800円から1100円(拝観場所に依る)
◆駐車場の有無 有料有り(普通車500円)
◆アクセス
●近鉄なんばから快速急行または特急で大和西大寺で乗り換え。 各駅停車天理行きまたは橿原神宮前行きに乗車。西ノ京駅下車すぐ。
●近鉄京都からは特急・急行が西ノ京駅に停車します。(時間枠あり要確認)
※京都、難波から近鉄大和西大寺経由西ノ京まで約40分
※西ノ京駅から南門までは5分ぐらいです
◆地図

薬師寺周辺地図
マメ知識(事前知識で愉しい一刻)
◆もともと持統天皇の病気平癒を願い建立されたお寺
◆修二会という旧暦2月に行われる五穀豊穣を祈願する催事が有名
◆白鳳伽藍とは遷移するまえの白鳳時代そのままの建物配置で造られているから
◆薬師寺は法相宗大本山です。
法相宗をインドから持ち帰ったのが玄蔵三蔵といわれています。
薬師寺にとって玄蔵三蔵は法相宗の始祖となります。
◆創建当時のまま残る東塔は現在補修中です。
36秒見所動画(必見ポイント)
イベント・祭り・行事情報
お土産・食事情報
周辺には目立った食事処はありませんでした
私的心象
薬師如来様にご縁をいただきたく、参拝してきました。
広い敷地に空を活かした配置で圧倒されます。
2つの伽藍はそれぞれ趣が異なり別々の存在のように感じます。
山を背に配した鎌倉や、空気を制する伊勢とも違う素晴らしい空間でした。
私は唐招提寺から歩いて来ましたので先に、薬師寺玄蔵三蔵院伽藍に入りました
玄蔵三蔵が薬師寺法相宗の始祖ということだそうです
残念な事に拝観できませんでした
拝観出来る場合と出来ない場合で薬師寺の拝観料が異なります
入れないと入りたい・・・
しかし、奈良のお寺は空に愛されています
写経道場になっているようです
判りやすいので拡大しました
薬師寺興楽門(北側に位置します)
薬師寺の御朱印は大講堂で頂けます。
御朱印を頂く間、中をぐるっと回ってきました
いったん外に出て薬師寺南門から入り直しました。
こちらは薬師寺中門です
ギャラリー(写真・動画)
参考になるリンク集
近場のオススメスポット
大仙古墳(仁徳天皇陵)
縁起・概要
歴史[編集]
薬師寺は天武天皇9年(680年)、天武天皇の発願により、飛鳥の藤原京(奈良県橿原市城殿〈きどの〉町)の地に造営が開始され、平城遷都後の8世紀初めに現在地の西ノ京に移転したものである。ただし、飛鳥の薬師寺(本薬師寺、北緯34度29分33.88秒東経135度48分0.95秒)の伽藍も10世紀頃までは引き続き存続していたと見られる。
創建[編集]
『日本書紀』天武天皇9年(680年)11月12日条には、天武天皇が後の持統天皇である鵜野讃良(うののさらら)皇后の病気平癒を祈願して薬師寺の建立を発願し、百僧を得度(出家)させたとある。薬師寺東塔の屋上にある相輪支柱に刻まれた「東塔檫銘」(とうとうさつめい、「さつ」は木偏に「察」)にも同趣旨の記述がある。しかし、天武天皇は寺の完成を見ずに朱鳥元年(686年)没し、伽藍整備は持統天皇、文武天皇の代に引き継がれた。
「東塔檫銘」には、「清原宮に天の下を統治した天皇(天武)の即位八年、庚辰の歳、中宮(後の持統天皇)の病気のため、この伽藍を創り始めたが、完成しないうちに崩御したので、その意志を継いで、太上天皇(持統)が完成したものである」という意味のことが記されている。ここでいう「天皇即位八年、庚辰之歳」は、『書紀』の「天武天皇9年」と同じ年を指している。すなわち、『書紀』は天智天皇の没した翌年(壬申年、西暦672年にあたる)を天武天皇元年とするが、天武が正式に即位したのはその翌年(西暦673年にあたる)であり、「天皇即位八年」とは即位の年から数えて8年目という意味である[1]。
持統天皇2年(688年)、薬師寺にて無遮大会(かぎりなきおがみ)という行事が行われたことが『書紀』に見え、この頃までにはある程度伽藍が整っていたものと思われる。『続日本紀』によれば、文武天皇2年(698年)には寺の造営がほぼ完成し、僧を住まわせている。この創建薬師寺は、藤原京の右京八条三坊の地にあった。大和三山の畝傍山と香久山の中間にあたる橿原市城殿町に寺跡が残り、「本薬師寺(もとやくしじ)跡」として特別史跡に指定されている。
平城京への移転[編集]薬師寺式伽藍配置の概念図。A:中門、B:回廊、C:金堂、D:塔、E:講堂、F:鐘楼、G:経蔵
その後、和銅3年(710年)の平城京への遷都に際して、薬師寺は飛鳥から平城京の六条大路に面した右京六条二坊(現在地)に移転した。移転の時期は長和4年(1015年)成立の『薬師寺縁起』が伝えるところによれば養老2年(718年)のことであった。ただし、平城薬師寺境内からは霊亀2年(716年)の記載のある木簡が出土していることから、造営は養老2年よりも若干早くから始まっていたとみられる。『扶桑略記』天平2年(730年)3月29日条に、「始薬師寺東塔立」とあり、東塔(三重塔)が完成したのがその年のことで、その頃まで造営が続いていたものと思われる。
なお、平城京への移転後も、飛鳥の薬師寺(本薬師寺)はしばらく存続していた。史料や発掘調査の結果からは平安時代中期、10世紀ころまでは存続していたようだが、後に廃寺となった。本薬師寺跡には金堂・東塔の礎石、西塔の心礎が残っている。本薬師寺の伽藍配置は「薬師寺式伽藍配置」と称されるもので、中央に金堂、その手前に中門、背後に講堂を配し、金堂の手前東西に塔を置く。そして、中門左右から出た回廊が講堂の左右に達し、金堂、東西両塔は回廊で囲まれている。この伽藍配置は平城薬師寺においても踏襲されている。本薬師寺、平城薬師寺双方の発掘調査により、両伽藍の建物の規模、位置関係などはほぼ等しく、本薬師寺の伽藍を平城薬師寺に再現しようとしたものであることがわかる。ただし、平城薬師寺では中門の規模が拡大され、回廊も幅が広げられている。
平城京の薬師寺は天禄4年(973年)の火災と享禄元年(1528年)の筒井順興の兵火で多くの建物を失った。現在、奈良時代の建物は東塔を残すのみである。天禄4年の火災では金堂、東塔、西塔は焼け残ったが、講堂、僧坊、南大門などが焼けた。発掘調査の結果、西僧坊の跡地からは僧たちが使用していたとみられる奈良時代や唐時代の陶磁器が多数出土しており、天禄4年の火災の際に棚から落ちて土中に埋もれたものとみられる。出典:Wikipedia